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翌朝、ニューコードに初めての霜が下りた。
それはもう冬の到来が近いことをマーチ家に駆け足で告げに来たかのようだった。
ジョオが白く曇った窓を袖でこすると、遠くの道まで白い霜柱が道を抱え上げているのが見える。
その生まれ立ての霜柱をザクザクと踏みつけながら、屋根付きの馬車がこちらに走って来る。
深く濃い紫色のその馬車はかつて見慣れた叔母−マーサ・フォレットの物だった。

「ジョオ、早く支度なさい。」メアリーが声をかける。
ジョオは急いで髪を整えると外套を取るために階段を駆け登って行った。

この日、ジョオとエイミーはマーサの屋敷に帰郷の挨拶に行くことになっていた。
元々、エイミーのロンドン留学は彼女を気に入ったマーサが援助を申し出たことで実現した。
そのため、彼女は年に一度、叔母の下へ報告に訪れていたのである。
もちろんこの日のことも事前に手紙でもう決まってたことだった。
エイミーとジョオは顔を見合わせると時間にうるさい叔母を待たせないよう
急いで馬車に飛び乗ると、まだ朝もやの晴れ切らぬ道を一路フォレット屋敷へと向かって行った。

     *     *     *

「ふぁ〜〜あ…。」
馬車の窓枠に頬杖をついていたジョオはふと大あくびをした。

「‥ちょっと、叔母様が見たら怒るわよ。 ここ、ボタン外れてる…。」
エイミーがジョオの襟元に手を伸ばし、いつの間にか外れていた襟のボタンを止めた。
ジョオにはその仕草が、彼女が背伸びをしているというより、
彼女の本質からにじみ出たもののように見えた。

「ごめんごめん、昨日あまり寝付けなかったものだから‥。
叔母様の家では注意するわ。」

「レディだったら、どんな時でも注意は怠らないものよ。」
すました表情でそう言う彼女は元の”背伸びのエイミー”に戻っていた。

「そうよね。」
ジョオはそんな妹に微笑むとまた窓の向こうへと視線を移した。
遠い丘の上にあったマーサの屋敷は随分と近付いて来ていたが、
彼女はぼんやりと窓の下を流れていく並木道の落ち葉の方を眺めていた。


「…ねぇジョオ、聞いてる?」
ふと混濁した意識の中にエイミーの声が割り込んできた。
「‥ゴメンゴメン、なんだっけ?」




「メグの話よ。」
エイミーはジョオの方に向き直ると言った。

「昨日、私が手袋を贈った時のあの手を見た?
私驚いちゃったわ、綺麗だったメグの手があんなに荒れて‥。」
エイミーは神経質そうに指先を何度もこすりながら言った。
確かに彼女の手は細く、蝋細工のようにすべすべと美しく見えた。

「あら、私はメグはきっと良いお母さんになると思うわ。」
ジョオはどこ吹く風といった様子で答える。
今のジョオにとってそれは優しく、そして確かに力強いものに感じられたのだ。





「…きれいだったメグは私の憧れだったのになぁ。」
エイミーの声は小さく、まるで独り言のようだった。

妹の言葉にジョオもまた、かつて姉の結婚を拒んだ自分のことを胸に浮かべていた。
馬車の車輪の音は二人の沈黙をかき消しながら淡々と進んで行く。
フォレット屋敷の門まではもうすぐだった。

     *     *     *

「よく来たねぇ、二人とも。」
叔母マーサ・フォレットは古くなって色のくすんだショールをかけ直すと
深く肘掛け椅子にもたれながら言った。
ジョオにとって久しぶりに会う叔母の姿はまた少し老け込み、
心なしか一回り小さくなったようにさえ見えた。

叔母の声を聞くやエイミーはスカートの裾をつまみ、深々とレディの挨拶を披露した。
そんなエイミーの立ち振る舞いをマーサは満足そうに見つめていたが、
やがてジョオに厳しい視線を移すと言った。

「ジョオ、あんたは随分と痩せたように見えるけど、
ニューヨークではろくな生活をしていないんじゃないのかい?」
マーサ叔母らしい直接的な言い方だった。

「いいえ叔母様、元気にやっていますわ。」
叔母はジョオの表情を一瞥すると薄い溜息をつくと鼻にかかった眼鏡を押し上げ、
エイミーに席を外すように目で促した。
叔母の仕草にエイミーはもう一度丁寧な会釈を見せ、そそくさと部屋を後にした。


  


「…さて。」
エイミーが部屋を出て、しばらくの沈黙の後にマーサがその重い口を開いた。
「そのニューヨークでの”作家生活”とやらは上手くいっているのかい?」

”来た。”ジョオはそう思った。
「…はい、少しずつですがお金には不自由しておりません。」

それは半分は本当だったが、もう半分は心配をかけまいとする嘘だった。
実際、小説の原稿は少しは売れていたが、自分一人の生活費だけで消えており、
この五年で貯金らしいものは全然出来ていないのが実情だったである。

「…ふん。」
小さく鼻を鳴らすとマーサはジョオの方に向き直った。

「あたしゃ、ごちゃごちゃと御託を言うつもりは無いんだよ、ジョオ。
あんたの小説は物になるのかってことを聞いているんだ。」
叔母の語調は強く厳しかった。
それを聞きながらジョオは来るべき時が来たことを感じていた。
ジョオのためらいの沈黙を知り、マーサは眼鏡を外しながら続けた。

「‥あたしももう年だ、そういつまで生きられるかも分かりゃしない。
だから、お前の口からはどうなるか分からない遥か彼方の夢話より、
地に足の付いた幸せの言葉を聞かせて欲しいんだよ。」
ニューヨークに発ってから八年間、叔母はずっと待っていたのだろう。
その言葉はジョオにとって殊更重く圧しかかった。
マーサは再び眼鏡をかけ、しばらくの間うつむくジョオを見ていたが、やがて重い口を開いた。


「…一年。一年だよ、ジョセフィン。
あんたは一年でこの街に戻らなきゃならない。」
叔母の突然の言葉はジョオの心を撃ち抜いた。
それは彼女にとって、死刑にも等しい宣告だった。

「あたしに言わせれば、それでも遅すぎるくらいさね。
そして、この街で結婚し子供を産むんだ。それが女の生き方なんだよ。」

マーサは諭すようにそう言ったが、そこにはもう変えることが叶わない強い意志があった。
ジョオにとってもそれが普通の生き方であること、
母や姉妹たちを心配させない生き方であることはとっくの昔に知っていた。





しかし、ジョオは顔を上げ、マーサと向き合った。
そして今度は身じろぎせずにまっすぐマーサを見つめると言った。

「…分かりました、叔母様。
この一年で結果を出して見せますわ。」

ほんの短い間、のどに熱いものがつかえるものを感じ、続く言葉を出すことが出来なかった。
何故か頭の中にあの日見た彼の去る姿が浮かんでいた。
だが、その気持ちを振り切りジョオは続けた。

「もし、それが出来ない時は帰って叔母様のおっしゃる通りにいたします。」
ジョオの言葉を聞くとマーサは黙って短くうなづいた。




話が終わると同時にメイドのエスターがお茶を運んで来た。
彼女は昔からの忠実なる叔母の使用人の一人であり、ジョオとも気心が知れていた。

「‥お邪魔じゃありませんでしたか。」
そそとお茶を注ぎながらエスターは言った。

「いいんだよ、もう話は終わったからね。
それからジョオ、エイミーはここに泊まっていくから
帰る時はエスターに馬車を出すように言うんだよ。」
叔母の口調はもういつものきびきびとしたものに戻っていた。

「はい、叔母様。くれぐれもどうぞお元気で‥。」
ジョオはマーサを見つめていたが深々と礼をするとエスターと共に部屋を出た。

     *     *     *

階下ではエイミーが待っていた。
「ジョオ、私…。」

「うん、知ってる。ここに泊まっていくんでしょう。」
ジョオは努めて明るい表情を作りながら言った。

「いいわ、お母さまには私から言っておく。」
ジョオが笑顔でウィンクして見せると、エイミーは胸に手を当てほっとしたような溜息をついた。
きっと自分と叔母が何を話していたかも感づいていたのだろう、彼女ももう子供ではないのだ。

「じゃあ、また後でね。ジョオ。」
そう言い残すとパタパタと階段を駆け上って行った。

「ぐっと大人っぽくなりましたね、エイミーさん。」
とエイミーの後姿を眺めながらエスターが言った。

「そうね、気付かなかったわ。」
ジョオはそう言うと大きく伸びをしてエスターに向き直った。

「さぁ、私も帰るわ。エイミーをよろしくね、エスター。」

「あら、もうお帰りですか?
せっかくお昼の用意も考えておりましたのに…。」
エスターはとても残念そうに表情を崩した。

「ごめんなさいね、
私もやらなきゃいけないことがたくさんあるから。」
申し訳なさそうにジョオが言う。

「あっ!…なら、ちょっとお待ち下さい。」
急に何かを思い出したかのようにエスターはそう言うと
かちゃかちゃと銀食器を鳴らしながら屋敷の奥へと小走りに消えた。
そして、すぐに大きな平たい箱を手に戻って来た。



「奥様からですよ、ジョオさんにって。」
エスターがうやうやしく箱のふたをずらして見せると、
そこには薄桃色の美しい絹のイブンング・ドレスがまるで空の星々のようにきらめきを放っていた。
「年頃の娘がドレス一つ無いのは不便だろうからっておっしゃいましてね。」

「でも、こんな高そうなもの受け取れないわ…。」
そんなジョオの気持ちを見透かすようにエスターは続けた。

「本当は黙って馬車に乗せておくように言われてたんです。
私、再三言ったんですよ、ご自分から贈った方がお喜びになりますよって。
でも、”あの子は頑固だし、私が真っ向から贈ってもどうせ受け取らないだろうからねぇ”
ですって。
全くどちらが頑固なのやら……でしょう?」

エスターの笑顔を見ると、ジョオは胸の辺りが熱くなった。
そして、自分もはにかむ様に微笑んでうなずくとドレスを受け取って言った。
「…分かったわ。叔母様にありがとうって伝えて。とても喜んでいたって。」
エスターは何も言わず、ただジョオの手を優しく取ってくれた。

     *     *     *

玄関の重い扉を開くと外からどうと風が吹き込んできた。
朝は気持ち良い秋晴れだったのに潮風に運ばれて来たのか海岸線の向こうには
低く雲が垂れ込め始めていた。

「‥風が出始めましたね。」
空を見上げるジョオに御者のベンが馬車の上から声をかけた。

「今時分はいつもこうです。
きっと風が沖の嵐を運んで来ようとしているんでしょうなぁ‥。
今日あたり、もしかしたら海鳴りが聞こえるかもしれませんよ。」

「海鳴り…?」
ジョオがベンの方を振り向き尋ねた。

「ええ、海が鳴くんですよ、嵐を呼ぶようにね。
海鳴りの後は大抵海がしけるから、海神の怒りだ‥なんてことを言う者もおりますがね。」
ベンはまるで信じていないように笑いながら言った。
ジョオもまた笑顔を見せると馬車へと乗り込んだ。


帰り道、ジョオは行きと同じ馬車の中でじっと物思いに耽っていた。
今までの八年間で出来なかったものを書かなくてはいけないのだ。
風はそんな彼女の気持ちを逆なでするようにいよいよ強く窓を打ちつけ、ビリビリと震わせた。



すると目の前の小さな御者窓をノックする音が聞こえた。
見るとベンが帽子を押さえながら海岸の方を指差している。



「……?」
不思議に思ったジョオが風に震える窓から外をのぞいたその時だった。
かすかに低い低い、まるで海の底からうなり声のような音が聞こえて来た。
ジョオは自然と身を乗り出して外の音に集中していた。
風の音の方が遥かに強かったが、その間々をくぐるようにして海鳴りの音は確かに聞こえていた。



ジョオは思った。

海鳴りよ、響け。
風に負けないぐらいもっともっと強く。

海鳴りよ、轟け。
波に負けないぐらいもっともっと高く。


そして彼女はその音の端切れを拾いながら必死に心の中でつむいだ。
それが帆布となってもう一度、漕ぎ出すことができるカに替わるように祈りながら。

馬車は、今朝来た道をゆっくりと帰って行く。
その轍には陽の光に溶けた霜で出来た水溜りが、流れ往く雲を映していた。


つづく



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