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マーサは年を取ってから昼食を自室に持って寄こさせるようになった。
昼食の席をこうして食卓で迎えるのはもう実に何年ぶりのことかもしれない、
エスターはサラダを取り分けながら思っていた。
それは体調を崩したこともあって実に仕方のないことだったのだが、
旦那様がご存命の頃は食事を書斎に持って来させるたびにいつも奥様は口うるさく怒っていた。

「…何がおかしいんだね。」
マーサの声にエスターははっとした。

「いいえ、なんでもございませんわ。」
盛り付けを終え、ボールをマーサの手元に置きながら、
エスターはすぐいつもの表情へと戻っていた。

マーサは小さく溜息を吐き、またエイミーへと向き直ると言った。
「それで…なんだったかね。」

「四月ですわ、叔母様。」
エイミーが答える。
「それまでには卒業に必要な単位は全て取れると思います。
ですから、春には長いお休みをいただけそうなんです。」

「そうかい、それは何よりだよ。
元よりお前の勉強に関しては全く心配はしていなかったけどねえ。」
極めて端的にマーサはそう評した。
はたからはとてもほめているようには見えないことだろう、
叔母はこういう人なのだ。
しかし、次の瞬間、叔母の口から思いもよらない言葉が出た。



「だがね、それだけかい?
私に報告しなきゃいけないのは。」
叔母は懐から手紙を取り出し、テーブルの脇へと置いた。
エイミーはその瞬間、それが自分宛てのものであることを察し、
昔、クリスマスに演じた劇で見せたように気絶しそうな気持ちに駆られた。

「誰だい、この男は?」
叔母は険しい顔つきを見せて言った。
エイミーが横目でエスターを見ると、彼女はぎゅっと目をつむり、
正直に言いなさいと言わんばかりに短く首を振って見せた。



まるで国賓に宛てたもののように上質な紙を使った封筒には
英国人らしい仰々しい字体が踊り、その宛名には”エイミー・マーチ・フォレット嬢”とあった。
もちろん宛先はこのフォレット屋敷の住所だった。
エイミーはしばし胸のブローチに触れていたがやがて重い口を開いた。

「この方は大学で知り合った、英国の上流階級の出の方なんです。
…私、気に入られているようで。」
彼女は上目遣いでマーサを見ながら答えた。

マーサは少しの間、目を伏せていた。
「無論、私は勉学に励んでいればその位の自由は構わないだろうと考えているつもりさ。
だがね…」
そして顔を上げるとエイミーの胸元のブローチに目をやると言った。

「それは大方、その男からもらったものなんだろう。
そんな高価なものが買えるほどの仕送りはしていないからねぇ。」
長年貿易商の夫を支えた叔母はこういう物を見る目も確かだった。
エイミーはこのブローチがなんとなく高価な物なのかもしれないことは薄々分かっていたが、
叔母の言葉に、改めて彼−フレッドの本気を知ったような気がした。

「…黙っていて申し訳ありません、叔母様。」
エイミーは口をあひるのように尖らせた。
それは怒られた時の彼女の子供の時からのくせだった。
マーサは少しの間、黙ってそんなエイミーを見つめていたが、
幾分か声のトーンを落とし、まるで諭すような口調で言った。

「エイミー、私はね、そんなことをとやかく言うつもりはないんだよ。
それより、ここの住所を使ったこと。‥それが良くないね。
何故自分の家ではなく、ここなんだね。
メアリーはこのことを知っているのかい?」

エイミーはその言葉を聞いても黙っていた。
もちろんメアリーには何も言っていなかったし、
また言える程、自分の心に整理がついているわけでもなかった。
エイミーがカ無く首を振って見せると
叔母は「…だろうね。」とだけ言った。

「今は目をつぶっておいてあげるよ。
でもねエイミー、あんたももう大人なんだ。
自分の心ははぐらかさずによく考えておくんだね。」

最後に短くそう言うとマーサは立ち上がり部屋を後にした。
エスターも慌ててその手を取り、彼女に従うように出て行った。

一人残されたエイミーはぎゅっと目をつぶったまま、ブローチに触れていた。
冷たかったブローチはいつの間にかエイミーの体温が移り、ほんのりとあたたかくなっていた。

     *     *     *

部屋に戻ったエイミーは閉じた扉にもたれかかるようにしながらしばらくの間、立ち尽くしていた。
叔母に手紙がばれたことよりも、自分の曖昧な本心を見抜かれた方が正直とてもこたえたのだった。
外は潮風が厚ぼったい雲を運んできたようで部屋の中を薄暗くしていた。

エイミーはふと持って来た旅行かばんに目をやった。
小さなその旅行かばんは3年前ロンドンに行く時、叔母が持たせてくれたものだった。
まっ白だったそのかばんはいつの間にかあちこちに小さな傷がつき、また少し汚れていた。
なんだかその小さなかばんだけが本当の自分を理解してくれてるかのようにエイミーには感じられた。

胸元ではブローチが、まるで笑顔のようにきらきらと輝いている。
それが今の自分にとって目に痛いほどとてもまぶしかった。
彼女はそれを外すと枕元に放り投げた。
そして、ふっと溜息を吐くと自分もベッドに倒れ込み、重くもないまぶたを閉じた。

     *     *     *
その日、エイミーは美術学校に程近いシドナムの植物園でキャンバスに向かっていた。
彼女はロンドンにやって来た日、最初に訪れたこの場所をとても気に入り、
その後も週に一度は必ず訪れて植物や鳥たちの油絵を描き続けてきた。

エイミーはここで絵を描きながらロンドンの四季の移ろいを見るのが好きだった。
色とりどりの季節の風景、美しい花々とその住人たる鳥や動物たち。
そしてそれらの中に役目を終え、静かにたたずむ水晶宮の姿…。
きらびやかな英国社交界に身を躍らせることももちろん楽しかったが、
やはり絵に没頭していることは彼女にとって大切な時間だった。

エイミーは一人静かに白いキャンバスに命を吹き込んでゆく。
まるで自分だけを取り残し、時間だけがそよ風のように頬を撫でてくれる。
午後の陽だまりの中で彼女はこの秋の想い出を込めるように筆を走らせた。

「やはり、ここだったね。」
振り向くと一人の男性が立っていた。
学友のフレッド=ボーンだった。



「もう完成しそうだね。」
キャンバスを覗きこみフレッドが笑顔で言った。
フレッドの短いが美しい金髪に陽の光が集まり、さざなみのようにきらめきを放っていた。
ロンドンでも有数の名家ボーン家出身の彼は容姿端麗でいつも女生徒たちの人気の的だった。
だが、不思議とエイミーと気が合い、最近では絵の話を交わすだけでなく、
上流階級の舞踏会などにも誘ってくれるようになっていた。

「…えっ、ええ。」
一瞬、エイミーはその光に目を取られていたが返事と共にまたキャンバスに向き直った。

「もうすぐアメリカに帰るから、出来れば今日中に完成させたいの。」
今度は振り返らずにエイミーは答えた。

「うん、そのことで来たんだ。」
フレッドは続けた。

「…実は兄の事業を来年から手伝わなくてはならなくなった。
もう君と絵を描くこともできなくなるだろう。」
らしくない早口な切り出しだった。

「君ももう来年卒業だったね。」
フレッドの声はいつも通り淡々とした口調だったが、
エイミーにはさびしさと決意にも似た強い意志のようなものが感じられた。

エイミーが何かを感じ、振り向くとやはり彼はいつも通りの微笑を湛えて見つめていた。
手には小さなリボンのかかった包みが握られていた。
彼はそれをエイミーに手渡すと言った。



「エイミー、君が帰る頃には僕はもう学校にはいないだろう。
これは一足早い僕からの卒業祝いだよ。」
フレッドの笑顔は優しかった。

「さぁ、そろそろ行かなきゃ‥。
僕は今夜、もうこのロンドンを発たなきゃいけないんだ。」

「えっ‥じゃあ、これでお別れなの?」
エイミーの言葉にフレッドは笑顔を崩さずうなずいた。




「もちろん、手紙は書くよ。約束する。」
その言葉にエイミーもまた笑顔でうなずいた。
フレッドも満足そうにそれを見つめていた。

「…ほら、頬に油が付いているよ。」
胸からハンカチを取り出し、そっとエイミーの顔を拭いた彼の笑顔は優しかった。
エイミーが上目遣いにフレッドの顔を見た時、彼の表情が急に引き締まった。

「もし、いつか僕たちが再会できた時、君の絵が完成していなかったら
その時はその続きを僕に描かせておくれ。」
そしてフレッドはそのまま彼女の言葉を待たずに立ち去って行った。
エイミーもまた、プレゼントを胸に抱きながら彼の後姿を見送っていた。


その日、エイミーの絵は完成しなかった。
宿舎に帰り、ベッドに一人横になっている時も、
エイミーはフレッドの最後の言葉の意味をわざと考えないようにしていた。

あの小さな包みには深い群青の宝石があしらわれたブローチが入っていた。
その深い吸い込まれそうな輝きを見つめていると、
エイミーは彼の気持ちを受け入れないことがなんだか悪いことであるようにも感じられた。
そして、そっと胸元にブローチを着けると手鏡を手に取った。

きっと彼は私を大切にしてくれるだろう。
でも、今の私に彼のことを愛し一生を共にすることが出来るだろうか。




エイミーは思った。
今は彼の気持ちを受け入れておこう。
そして彼と再会できた時、気持ちが揺らがなかったらその先のことを考えよう。
それまではお母様には内緒にしておこう。

そこまで考えるとエイミーは半分ほど溶けた燭台のろうそくを吹き消すと
そのまま眠りについた。

     *     *     *

目が覚めると部屋の窓から夕陽の光が差し込んでいた。
エイミーは起き上がって髪を整えると部屋を出ようとしてふと立ち止まった。
枕元にはブローチがそのままの状態できらめいていた。

夕陽を浴び、あたたかく深く輝くそのブローチはエイミーに向けて
微笑んでいるかのように感じられた。
エイミーは考え直すとブローチを手に取り、それをかばんの奥に大切にしまいこんだ。
そして、部屋を出ると音を立てながら階下へと降りて行った。



つづく


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